世界を分けた神さまは、そのあとどこへ行ったの?
- 記録番号
- AKS-2026-6616
- 観測者
- 日野出 ソラ(神話・神秘担当記者(新人))
- 観測日
- 分類
- 神話 / 比較神話 / 民俗学
- 実在性
- 虚構(本記事はフィクションです)

きょうは、素朴な疑問から始めます。——世界を作った神さまは、いま、どこで何をしているんでしょう。有名な神さまの名前なら、あなたもいくつか挙げられると思います。ギリシャ神話ならゼウス。日本なら天照大御神(あまてらすおおみかみ)。でも、じつはこの神さまたちは、世界を作った本人ではありません。どちらも、世界ができたあとに生まれた神さまです。では、作った本人はいまどこにいるのか。気になって探してみると、不思議なことに気づきます。世界を作った神さまは、物語のいちばん最初に出てきて、作り終えると、そのあとの話にぱったり出てこなくなるのです。きょうは、この「どうして」を追いかけます。ぼくが書いてきたシリーズ「失われた元神話」の、これが最後の話です。
作った神さまは、途中でいなくなる
まずは、世界のあちこちの神話で、世界を作った神さまがそのあとどうなったかを見ていきます。
中国の神話には、盤古(ばんこ)という巨人の神さまが出てきます。天と地がまだ分かれず、卵の中身のように混ざり合っていたころ、そのまん中に生まれて、天を押し上げ、地を踏みしめ、一万八千年かけて天と地を押し分けたと語られます。それで盤古はどうなったか。死んでしまうのです。左の目は太陽に、右の目は月に、血は海に、髪は草や木になったといいます。
ギリシャ神話で天と地が分かれる場面には、いちばん古い天の神さま、ウラノスが出てきます。ウラノスは大地の女神ガイアにぴったりと覆いかぶさっていて、天と地はまだくっついていました。二つを引き離したのは、息子のクロノスです。その刃で切りつけられたウラノスは、大地から引き剥がされ、それきり天の高みへ退(しりぞ)いてしまいます。むごい場面ですが、神話では、これが天と地の分かれた瞬間だと語られます。盤古は分けた側の神さまでしたが、ギリシャで消えるのは、分けられた側の神さまなのです。
そして日本。『古事記』がいちばん最初に名前を挙げる神さまを、ご存じでしょうか。天照大御神ではありません。天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)という神さまです。天と地が初めて開けたとき、最初に現れたと書かれています。ところが、この神さまの出番は、ほとんど一行(いちぎょう)で終わります。現れて、身を隠した。それだけです。そのあとに続く長い長い物語に、この神さまは二度と出てきません。
死んでしまう。引き剥がされて退く。身を隠す。——消え方は、見事にばらばらです。それなのに、消えるという事実だけは、そろっているのです。
拝まれているのは、あとから来た神さまたち
物語から消えるだけなら、まだ分かります。主役の交代は、物語の常だからです。でも、世界を作った神さまたちは、人びとの信仰からも消えているのです。
メソポタミア(いまのイラクのあたりにあった古い文明です)の神話では、アヌという神さまが天そのものであり、神々のいちばん上に立つ存在でした。ところが、人びとが実際に熱心に祈りを捧げ、大きな神殿を建てた相手は、アヌではなく、その下の世代の神さまたちだったことが分かっています。いちばん偉いのに、いちばん拝まれていないのです。
ヒンドゥー教には、世界を作ったとされるブラフマーという神さまがいます。世界を保つ神ヴィシュヌ、世界を壊す神シヴァと並ぶ、三大神のひとりです。ヴィシュヌとシヴァを祀(まつ)る寺院は、インド中に数えきれないほどあります。では、ブラフマーの寺院は?——ほとんどないのです。名高い寺院といえば、プシュカルという町にある一つが挙げられるくらいです。世界を作った本人なのに、です。
西アフリカのアカンの人びとには、こんな伝承があります。天の神ニャメは、昔は人間のすぐ近く、手の届きそうな低さにいました。ところが、ある老女が臼(うす)で芋をつくたびに、長い杵(きね)の先が天を突き上げるものですから、ニャメはとうとう嫌になって、天ごと高く高く昇っていってしまいました。それからの人びとは、遠くなった天の神にではなく、身近な精霊やご先祖さまに祈るようになったといいます。
じつは、この型には学問の名前が付いています。比較宗教学でいう、デウス・オーティオースス。〈暇になった神さま〉という意味のラテン語です。世界を作った神さまが、作り終えると世界の切り盛りから手を引いてしまい、人びとの祈りは、あとから来た身近な神さまや精霊やご先祖さまのほうへ向かう——この形の伝承は、アフリカにも、メラネシアにも、南アメリカにも、広く見つかっています。ここでは短く、「退(しりぞ)いた神」と呼ぶことにします。
分けることが、仕事だったのではないか
どうして、世界を作った神さまは退いてしまうんでしょう。
ここで、ぼくが「失われた元神話」の一本目に書いたことを、短くおさらいさせてください(はじめての方は、ここだけ読めば大丈夫です)。世界の神話は、遠く離れた土地で別々に生まれたのに、そろって「最初は水だった」と語ります。何も分かれていない、果てのない水。そして、世界を作るとは、その水に境目を引くことでした。光と闇を分け、天と地を分け、水と陸を分ける。ぼくはその大もとに、すべてが溶け合った、分かれる前の一つの水——本紙が空想で組み立てた元神話〈もとつ水(もとつみず)〉を置いてみたのでした。
そう思って眺め直すと、退いた神たちには、消えること以外にもう一つ、共通点があります。盤古は、天と地を押し分けた神さまでした。ウラノスが消えたのは、天と地が引き離された瞬間でした。ニャメの伝承で起きたのも、天が地から遠く離れていくことです。——みんな、「分ける」話なのです。
だったら、答えは案外すなおなものかもしれません。分けることが、仕事だったのではないか。世界を分け終えた神さまには、もう出番がありません。家を建て終えた大工さんが、その家に住まないのと同じです。それなら、拝まれない理由にも説明がつきます。ぼくたちが神さまにお願いするのは、これからのこと——明日の天気、商売、安産、合格。仕事を終えた神さまに、これからのお願いをする人はいないのです。
でも、ひとつだけ、引っかかることがあります。それなら、消え方の説明は、どうしてあんなにばらばらなんでしょう。仕事を終えて静かに去った——どの神話もそう書けばいいはずなのに、死んだり、切られたり、隠れたり、嫌になって昇っていったりと、土地ごとに、まるで違う理由が語られている。ぼくは、ここが気になって仕方ないのです。
元神話の、いちばん最後の話を組み立ててみる
ここから先は、いつものように、ぼくの空想です。世界中の神話の大もとにあったかもしれない「失われた元神話」。その最後の章を、組み立ててみます。
思い出してほしいのは、水の性質です。水面に指で線を引いても、その線は、すぐに消えてしまいます。——だとしたら、です。もとつ水に境目を引いた神さまの仕事は、引いて終わり、ではなかったはずなのです。放っておけば、水は戻ろうとする。引いたばかりの境目は、誰かが押さえていなければならない。分けるのは、一万八千年かかったとしても、終わりのある仕事です。でも、分けたままに保つのは、そうではありません。
もっとも、すべての境目を永遠に押さえ続ける必要は、なかったはずです。一つ屋根の下で暮らしていた二人も、離れて別々に暮らすうちに、やがてそれぞれの暮らしに馴染(なじ)んでいきます。それと同じように、分けられた両側も、長い年月のあいだに、それぞれの形で固まっていきます。陸は乾いて、固い大地になり、空は澄んで、高い青空になる。もう戻りようがないほど固まった境目からは、手を離してよいのです。
だから、ぼくの空想する元神話の最後の章は、こうなります。——世界を分け終えた神さまは、去ってなどいなかった。引いたばかりの境目という境目を、たった一人で押さえ続けていた。力のすべてをそこに注いでいたので、人の声に応える余力が、なくなった。けれど人びとには、その事情が分かりませんでした。きのうまで応えてくれた神さまが、急に黙ってしまった理由を、誰も知らなかった。だから人びとは、土地ごとに、それぞれの説明を考えたのです。あの方は死んだのだ。切られて退いたのだ。身を隠したのだ。嫌になって昇っていったのだ。——消え方の説明がばらばらなのは、本当の理由を、誰も知らなかったからです。土地によっては、分けた側と分けられた側さえ、入れ替わって語られました。
それから、気の遠くなるような時間が経ちました。固まった境目から順に、神さまは手を離していきました。天と地。水と陸。山と海。そして、いま。神さまの手に残っている境目は——もう、一本だけです。
神さまの手に残った、最後の一本。ぼくは、それは生きている者と、死んだ者とのあいだの線だと思うのです。というのも、神話の世界では、「死」はあとから来たことになっているからです。人がなぜ死ぬようになったのかを語る神話は、世界を作る話とは別の、もっとあとの出来事として語られます(くわしくは元ネタ解説で)。つまり、生と死の境目は、世界にいちばんあとから引かれた線なのです。引かれる前の世界には、「死ぬ」ということ自体がありませんでした。引かれてから、向こう側へ渡る者が、少しずつ増えていったのです。
しかも、この線だけは、様子が違うのです。陸と空が、いまさら一つに戻ることはありません。でも、生きている者は、死んだ者を忘れないのです。名前を呼び、写真を飾り、夢に見る。両側が互いを覚えているかぎり、境目は固まりようがありません。だから神さまは、残った力を、この一本に注ぎ続けています。
そして——分けた日から数えて、あまりにも長い時間が経ちました。力は、少しずつ弱くなっていきます。
あなたのまわりの、いちばん新しい境目
もし、押さえる力がゆるんだら、どこから戻りはじめるのでしょう。考えるまでもありません。いま押さえられている線は、もう一本しかないのですから。最初に戻るのは、いちばん最後に分けられたもの。生きている者と、死んだ者です。
亡くなった人の夢を見た朝、目が覚めてからもしばらく、その人がまだ近くにいるような気がすることがあります。ぼくはあれを、あの線がほんの一瞬だけゆるんで、また閉じた名残なのだと思うことにしています。怖い話ではありません。線の向こう側にいるのは、あなたが名前を呼び、いまも覚えている人たちなのですから。
最後に、あなたのまわりの境目を、少しだけ確認してみてください。神さまの引いた線のほかにも、ぼくたちは暮らしの中に、自分の手で小さな境目をたくさん引いています。そして、そういう新しい境目を、押さえている者はいません。眠る直前までスマホを見る生活をつづけたせいで、昼と夜の境目が、ぼやけたことはありませんか。季節の境目も、年々あいまいになっていく気がします。他人の言葉が一日じゅう流れこんでくる画面の中では、どこまでが自分の考えなのか、ときどき分からなくなる。——確かめていくうちに、あなたも気づくはずです。天と地、山と海のような、古い境目ほど、まだ固い。ゆるんでいくのは、いつも、新しい境目からなのです。
元ネタ解説(ここからは観測者の種明かし)
この記事は創作ですが、土台には実在の神話と、それを読み解く学問のモチーフを使っています。
「世界を作った神が、作り終えると退いてしまい、実際の信仰はあとから来た身近な神々へ向かう」という型は、比較宗教学に実在します。デウス・オーティオースス(deus otiosus、ラテン語で「暇になった神」)と呼ばれ、宗教学者ミルチャ・エリアーデらが論じました。この型の伝承がアフリカ・メラネシア・南アメリカなどに広く見られること、退いた神に代わって祖先や精霊が祈りの相手になることも、実際に指摘されているとおりです。
記事に出てくる神話も、それぞれ実在の伝承です。盤古が一万八千年かけて天地を押し分け、死後にその体が世界になったという物語は、中国の『三五歴記』などの古い文献が伝えるものです。天之御中主神が『古事記』の冒頭に最初に現れ、「身を隠した」とだけ書かれてそれきり登場しないのも、本文のとおりです(ただし、この神さまが後世に北極星の信仰と結びついて祀られるようになった歴史もあり、「いっさい信仰されなかった」わけではありません)。ウラノスがクロノスの刃で大地から引き離される場面はギリシャ神話の伝えるところで、神話学ではこうした物語は「天地分離」という世界共通のモチーフとして研究されています。むごい語り口も、世界の成り立ちを説明するための神話の型なのです。アヌが最高神でありながら祭祀の中心にならなかったこと、ヒンドゥー教の創造神ブラフマーの寺院がプシュカルの一つを筆頭にごく少ないこと(その理由を語る伝承もインドにいくつも伝わっています)、アカンの天の神ニャメが老女の杵に突かれて天ごと遠ざかったという伝承も、それぞれ実在します。ヒンドゥー教もアカンの信仰も、現在に生きる信仰です。本紙は珍しがって並べたのではなく、「作った神さまは、そのあとどこへ行ったのか」という同じ問いを先に歩いてきた物語として、敬意をもって扱いました。
ここで、打ち明けておかないといけないことが二つあります。一つ。「創造神は必ず退く」と言えるほど、世界の宗教は単純ではありません。世界を作った神がいまも世界を治め、人びとの祈りに応えると信じられている宗教は、現在もたくさんあります。比較神話学には「型に当てはめようとすれば、何にでも当てはまってしまう」という手厳しい批判があり、この記事の「退いた神」も、数ある伝承から本紙が一つの型を選んで磨いた、読み方の一つです。二つ。「死はあとから来た」という話は、半分は本当です。人がなぜ死ぬようになったのかを語る神話は「死の起源神話」と呼ばれ、世界の始まりの話とは別の物語として、東南アジアからアフリカ、南米まで広く分布しています(石とバナナのどちらかを選ばされて、やわらかいバナナを選んだから人は死ぬようになった——という「バナナ型」が有名で、『古事記』のコノハナサクヤビメの物語もこの型に連なるとされます)。ただし、「生と死の境目が、世界でいちばん最後に引かれた線だ」というのは、この分布をもとに本紙がふくらませた空想です。
そして、〈もとつ水〉も、「境目は引いたあとも押さえ続けなければならない」という保つ仕事の話も、神さまがいまも最後の一本の線を押さえているという結末も、すべて本紙の創作です。実在のどの神話にも、こういう後日譚(ごじつたん)はありません。種明かしのついでに、着想のもとを一つ。いま宇宙論の世界では、宇宙を押し広げてきた力(ダークエネルギー)が、時間とともに弱まっているのではないか——という観測結果が報告され、議論が続いています。まだ確定していない、現在進行形の話です。「世界を押し広げてきた力が、弱ってきているらしい」。この一報を読んだとき、ぼくは反射的に、あの退いた神さまたちのことを思い出したのでした。世界を分けた力が弱まったら、分かれていたものは、どうなるんだろう——この記事は、その「どうなるんだろう」に付けた、ぼくなりの答えです。