最初は水だった — 世界はなぜ「水を分ける」ことから始まるのか
- 記録番号
- AKS-2026-3360
- 観測者
- 日野出 ソラ(神話・神秘担当記者(新人))
- 観測日
- 2026年6月24日
- 分類
- 神話 / 比較神話 / 民俗学
- 実在性
- 虚構(本記事はフィクションです)

ぼくには、ずっと不思議に思っていることがあります。世界中の神話を読み比べていると、生まれた土地も時代もまるでちがうはずなのに、どうしてだか、みんな同じ一言から話を始めたがるのです。——最初は、水だった、と。メソポタミアでも、エジプトでも、この日本でも。海とも沼ともつかない、果てのない水。陸も空もまだなくて、ただ水だけがあったのだ、と。どうしてこんなに遠く離れた人たちが、そろって同じ夢を見たみたいに「水」と言うんでしょう。きょうは、その「どうして」を、ぼくなりに追いかけてみたいのです。
神話は、そろって「水」から始めたがる
まずは、世界の神話が語る「いちばん最初」を、いくつか並べてみます。
メソポタミア(いまのイラクのあたりで栄えた、とても古い文明です)に伝わる物語では、世界のはじまりに二つの水がありました。淡い水と、塩からい海の水。その二つが混じり合った、境目のない水から、すべてが生まれていきます。
エジプトの神話では、はじめにあったのはヌンと呼ばれる「原初の水」です。光も大地もなく、ただ暗い水だけがどこまでも広がっていた、と語られます。
旧約聖書の冒頭にも、よく似た一文があります。天地がまだ形をなす前、「水の面(おもて)」があり、その上を風のようなものが吹いていた、と。
そして、この日本。『古事記』の語る天地の初めも、まだ形の定まらない、脂(あぶら)のように、海に浮かぶクラゲのようにふわふわと漂うばかりのものでした。
土地も、言葉も、信じる神さまもまるでちがう。なのに、どれもこれも「最初は水だった」と言いたがる。これは、ただの偶然なのでしょうか。
「水」とは、まだ何も分かれていないということ
ここで、ぼくは一つのことに気づきました。神話の語る「最初の水」は、どれも「広い海」のことではないのです。もっと言えば——まだ何も分かれていない、ということなのです。
考えてみてください。水は、すくっても形が残りません。手で半分に切ろうとしても、すぐにまた一つに戻ってしまう。水とは、「ここからが陸、ここからが空」という境目を、まだ一つも持っていないもの。上も下も、右も左も、生きているものと死んだものの区別さえ、まだない。神話はその「分かれる前」を、いちばん身近な「水」になぞらえたのではないか。ぼくにはそう思えてきたのです。
だとすると、世界が始まるとは、どういうことでしょう。答えははっきりしています。「分けること」です。
実際、神話はそろって「分ける」話をします。旧約聖書では、神がまず光と闇を分け、それから水と水を分けて、上の水と下の水のあいだに空をつくります。日本の神話でも、漂うものを「かき混ぜて、固めなさい」と命じられた神さまが、矛(ほこ)で混沌(こんとん)をかき回し、引き上げたしずくから島を固めていきます。——分ける、固める、引き上げる。やり方はちがっても、やっていることは同じです。一つに溶け合った水に、最初の境目を入れていく。それが、世界の始まりなのです。
先輩に聞いてみた
ここまで考えて、ぼくはどうしても確かめたくなって、物理で不思議を翻訳するのが得意な先輩、物部澪(もののべ みお)さんのところへ行きました。
「物部さん。神話の『最初は水だった』って、なんだか物部さんの言う〈未決相(みけつそう)〉に似てませんか。まだ何も分かれていない、いるともいないとも決まっていない、っていう——」
物部さんは少し考えてから、いつもの調子でゆっくりこう言いました。
「日野出くん、それはちょっと結びつけすぎだよ。〈未決相〉は、観測すると一つに決まってしまう、っていう量子力学の言葉を借りた話。神話の水は、人がこの世界をどう感じてきたかの話。出どころはぜんぜんちがう」
そうですよね、とぼくがしょげていると、物部さんは付け足してくれました。
「——でもね。『まだ一つに決まっていない、宙(ちゅう)ぶらりんの状態がもとにあって、そこから一つに決まっていく』。その形だけを取り出してみると、たしかによく似ている。昔の人が世界を水だと感じたのと、私が幽霊を未決相だと考えたのは、もしかすると同じ『分かれる前』を、別々の言葉でなぞっているのかもしれない。理論監修としては『証明はできない』とだけ言っておくけれどね」
ぼくは、なんだかうれしくなりました。遠く離れた場所にいる人たちが、まるで同じ夢を見たみたいに「水」と言う。その理由のしっぽを、ほんの少しだけつかめた気がしたのです。
失われた元神話〈もとつ水〉を、組み立ててみる
ここから先は、本紙だけの空想です。世界中の神話に同じ形があるのなら、その大もとに、いちばん最初の一つの神話——「失われた元神話」があったのではないか。ぼくは、世界の神話から共通の骨組みだけを抜き出して、それを組み立て直してみることにしました。もちろん、こんな神話はどこにも実在しません。本紙が拾い集めた断片から、ぼくが想像で復元する、いわば下書きです。
その元神話を、本紙では〈もとつ水(もとつみず)〉と呼ぶことにします。「もとつ」とは「おおもとの」という古い言い方で、つまり「おおもとの、一つの水」という意味です。
語りはこうです。——はじめに、もとつ水があった。陸も空も、昼も夜も、生きるものと死ぬものも、あなたとぼくも、まだ一つに溶け合って、どこにも境目がなかった。やがて、最初の手が水に触れ、そっと境目を引いた。水と、水でないものとを分けた。分けられたものたちは、それぞれ陸になり、空になり、いきものになった。こうして世界は、たくさんのものへと分かれていった。
ここまでなら、世界中の神話とだいたい同じです。けれど本紙の元神話には、もう一つだけ、続きがあります。
分けきれずに残った、もとつ雫
水を分けるのは、じつはとてもむずかしいことです。すくってもこぼれる。切っても一つに戻る。だから——どんなにていねいに分けても、最後にどうしても分けきれない、ほんの一滴が残ってしまう。
本紙では、その分けきれずに残った一滴を〈もとつ雫(もとつしずく)〉と呼びます。もとつ水の、たった一滴の名残です。
このひとしずくは、いまも世界のあちこちに、こっそり紛れています。そして、ここがおもしろいところなのですが——もとつ雫だけは、まだ何にも分かれていないのです。陸でも空でもなく、生でも死でもなく、あなたでもぼくでもない。世界はとっくに分かれ終わったのに、その一滴のなかでだけ、すべてがまだ溶け合ったまま、宙ぶらりんでいる。
そう考えると、いろいろなことが、つながってくる気がしませんか。視界の端をよぎって、振り向くと消えてしまう、あの気配。どっちつかずで、いるともいないとも言いきれないもの。あれはもしかすると、分けきれずに残ったもとつ雫が、ふと表に出てきた瞬間なのかもしれません。物部さんの未決相も、たどっていけば、この一滴に行きあたるのかも——いえ、これはぼくの空想が過ぎますね。物部さんに、また叱られてしまいそうです。
最後に、お金もかからず、危なくもない遊びを一つ。コップに水をくんで、しばらく眺めてみてください。その水は、コップの形に区切られて、もう「分けられた」水です。でも、もしほんの一滴だけ、まだどこにも分けられていない水が混じっているとしたら? ——もちろん、見分ける方法はありません。検証もできません。ただ、そう思って眺めるコップ一杯の水は、いつもより少しだけ、深く見えるはずです。
次回は、この元神話のもう一つの形——「分けられたものは、どうして片方だけ欠けてしまうのか」を追いかけます。割れた双子の話です。
元ネタ解説(ここからは観測者の種明かし)
この記事は創作ですが、土台には実在の神話と、それを読み解く学問のモチーフを使っています。
世界の創世神話の多くが「原初の水」から始まる、というのは本当です。メソポタミアの『エヌマ・エリシュ』では淡水のアプスーと塩水のティアマトという二つの水が、エジプト神話では原初の水ヌンが、旧約聖書『創世記』では「水の面」が、それぞれ世界のはじまりに置かれています。『古事記』が天地の初めを、海に漂うクラゲのようだと描くのもよく知られたところです。こうした「宇宙のはじめにあった大いなる水(英語で cosmic ocean、原初の海と訳されます)」というモチーフが世界に広く見られることは、比較神話学や宗教学でも繰り返し指摘されてきました。
ただし、ここからが大事なところです。世界の神話が似ているからといって、「すべての神話が、たった一つの元神話から枝分かれした」と証明されたわけではありません。人間がどこでも水のそばで暮らし、似た自然を見て、似た問い(世界はどこから来たのか)を抱いたから、似た物語がそれぞれの土地で別々に生まれた——そう考える研究者も大勢います。神話が似ている理由には、物語が伝わって広まった、もともと共通の祖先の記憶だった、あるいはまったくの偶然だ、と、いくつもの説があるのです。本紙が「失われた元神話」と呼んで一つにまとめてみせたのは、あくまで物語を楽しむための、想像上の組み立てだと受け取ってください。
そして、〈もとつ水〉も〈もとつ雫〉も、それを物部澪の〈未決相〉に結びつける発想も、すべて本紙の創作です。実在の神話に、この名前の神さまや一滴が出てくるわけではありません。けれど、遠く離れた人たちが、そろって「最初は水だった」と言いたがる——その不思議だけは、本物です。その不思議に、ぼくなりの名前を一つ、付けてみたかった。それが、この記事でした。