OBSERVATION REPORT

担ぎ手が、増えていく — 年々重さを増す藁人形の謎

記録番号
AKS-2026-6889
観測者
久遠寺 紡(怪異民俗記者)
観測日
分類
民俗学 / 心霊
実在性
虚構(本記事はフィクションです)

担ぎ手が、増えていく — 年々重さを増す藁人形の謎 — アイキャッチ画像

八月のはじめの晩、葉振村(はふりむら)の田んぼ道を、松明(たいまつ)の火の列が、ゆっくり進んでいきました。鉦(かね)という手のひらほどの金属の楽器と、太鼓の音が、夜道に響いています。行列の先頭では、藁(わら)で編んだ、大人の背丈より大きな人形(にんぎょう)が担がれています。田につく虫を村の外へ追い払う、「虫送り」という夏の行事です。この村では五十年あまり途絶えていたものが、十一年前に復活しました。

人形を担いでいたのは、五人でした。保存会に残っている復活した年の写真では、同じ人形を、四人で担いでいます。

人形は、復活した年に編まれたきりのものです。この十一年、何ひとつ変わっていないはずです。それなのに、担ぐ人の数のほうは、増え続けています。

災いは、火と音を嫌う

葉振村へ入る前に、私は近隣の郷土資料に当たり、いまも虫送りが続いている土地をいくつか訪ねて、この行事の成り立ちを教わってきました。

虫送りは、かつて全国にあった行事です。薬で虫を殺せなかった時代、稲を食う虫は、村がまるごとつぶれかねない災いでした。ただし当時の人は、それを「虫という生き物の問題」だとは考えていませんでした。村に入り込んだ災いが、虫の姿をとって現れている。そう考えました。

だとすれば、やるべきことが変わってきます。虫を殺すのではなく、災いのほうを村の外へ出す。それが、この行事の役目になります。

ところが、災いは目に見えません。手で持って運ぶこともできません。そこで、こういう段取りが組まれました。

まず、藁で人の形を編みます。人を呪うための藁人形とは、まったく別のものです。こちらは、災いを移し入れるための入れ物です。人の形にするのは、災いは人の恨みから生まれるものだと考えられていたからだそうです。

次に、村じゅうの人が松明を持ち、鉦と太鼓を鳴らしながら、田を一枚ずつ、舐めるように回ります。災いは、火と音を嫌うとされていました。追い立てられた災いは逃げ場を探して動き、最後に残る逃げ場が、行列の先頭で担がれている藁の人形だけになります。そうやって、村じゅうの災いを一箇所へ集めるわけです。

最後に、集め終わった人形を村境(むらざかい)まで担いでいき、川へ流します。川は、村の外へ出ていく道だからです。

つまりこの行事は、二段構えでできています。集めて、捨てる。 片方だけでは、成り立ちません。

なぜ行事は消え、なぜ復活したのか

葉振村で最後に虫送りが行われたのは、一九六三年です。行事が消えた理由は、二つありました。

一つは、農薬です。薬が行き渡って、虫は村をつぶすほどの災いではなくなりました。

もう一つは、燃料です。松明の材料には、菜種(なたね)から油を搾ったあとの殻を使っていました。よく燃えるからです。ところが家の煮炊きがプロパンガスに変わって、殻を燃料に使う家がなくなり、菜種を作る畑そのものが減りました。松明を作りたくても、材料が手に入らなくなったのです。

取材ノートより。Fさん(八十歳)の話。「わしが十七のときが、しまいだった。次の年から、誰も言い出さんようになった。やめようと決めたわけじゃないんだ。誰も言わんかっただけだ」

Fさんは、その最後の年に担ぎ手をしていました。村境まで人形を担いでいき、自分の手で川へ入れた人です。

それから半世紀たった二〇一五年、葉振村は虫送りを復活させました。

言い出したのは、当時、村の役場に勤めていたIさんです。県の補助金の交付を受け、古い写真と、村に残っていた記録と、Fさんの記憶をつき合わせて、当時の段取りを一つずつ復元していきました。いまは、そのときに立ち上がった保存会——虫送りを続けていくために村の人たちで作った会——の会長をしています。

Iさんが作った手順書も、見せてもらいました。何時に公民館へ集まり、どの田をどの順に回り、どこで折り返し、何時に解散するか。全部書いてあります。Iさんの几帳面な人柄が、そのまま形になったような手順書でした。

日取りも記録のとおりです。昔の暦の六月にあたる日にやるので、いまの暦では八月のはじめになります。

ただ一つ、再現されなかった手順

そこまで正確に再現したのなら、行事は昔と同じものになったはずです。

ただ、一つだけ、再現されなかった手順がありました。

村境で、人形を川へ流す。この手順だけが復活のときに外されて、人形は公民館へ持ち帰られることになったのです。

理由は二つあると聞きました。どちらも、私にはもっともなことに聞こえました。

一つ。あの人形を流せる川が、もうありません。村境を出たところで川は用水路になっていて、そのまま隣の集落の田へ入っていきます。背丈より大きな藁の人形を流せば、隣の集落に迷惑がかかります。

二つ。人形を毎年は作れません。一人で編み上げられる人が、村にはもういないのです。復活の年の人形も、Fさんに教わりながら、保存会の人たちが半年がかりで編みました。同じことを毎年やるわけにはいきません。

だから持ち帰って、翌年も同じ人形を使う。そう決まりました。

取材ノートより。Fさんの話。「わしは言うたよ。しまいは川へ流すもんだ、と。そしたら、なんで流すんですか、と訊かれてな。……それが、わしにも分からんのだ。昔からそうしとった、としか言えん。それで、この話はしまいになった」

手順は残って、目的は残らなかった

保存会の何人かに、訊いてみました。これは、何を追い出す行事なんですか、と。

はっきりした答えは、返ってきませんでした。虫でしょう、と言った人が一人。あとは、さあ、と笑うか、黙るかでした。Iさんも「そこまでは調べていません」と言いました。

誰かを責めたいのではありません。記録に残せるのは、何時に、どこで、何をするか、までです。なぜそうするのかは、書いた人にとって当たり前すぎて、書かれません。そして、その書かれなかった部分だけが、五十年の空白を越えられませんでした。手順は残って、目的は残らなかったのです。

目的を知らない人には、省いてよい手順と、省いてはいけない手順の見分けがつきません。

Iさんに、燃やすやり方もあるそうですね、と訊いてみました。土地によっては、人形を村境で焼いてしまう形の虫送りもあるからです。

「あの大きさのものを外で燃やすとなると、いまは消防やら近所やらに話を通さんといけませんからね。それに——うちの記録には、流す、としか書いてないんですよ。書いてないことは、やらないことにしています」

筋の通った答えだと思います。この村では、誰も間違ったことをしていません。

量ってみました

行列が公民館に戻ったあと、担ぎ手のみなさんは、口々に「重かった」と言っていました。

担ぎ手は、復活した年は四人でした。五年目の夏の反省会で「来年から五人にしよう」と決まり、次の年から五人になりました。それから七年、ずっと五人です。人数を増やしたのは、担ぎ手の腰や膝がきつくなってきたからです。復活の年から担ぎ続けている人たちは、もう十一年分、歳をとっています。

ただ、私が引っかかったのは、いちばん若い担ぎ手のYさんの言葉でした。三十代の方で、五年前から行列に入っています。

取材ノートより。Yさんの話。「入ったころは、村境まで一人で担ぎ通せたんです。今年は、途中で二度、代わってもらいました。……情けない話ですけど」

歳のせいなら、いちばんこたえるのは、いちばん歳をとった人のはずです。三十代の体は、五年でそこまで衰えません。

翌日、Iさんに頼んで、人形を量らせてもらいました。行事のあいだは人の肩で担ぐ決まりですが、量りに行くだけなら軽トラックでかまいません。倉庫から運び出して、農協の集荷場にある、米袋を載せて量る大きなはかりに載せました。

じつは、この人形は、復活した年にも同じはかりに載ったことがあります。編み上がった人形を軽トラックで公民館へ運ぶ途中、当時の広報の担当者が面白がって載せてみたのだそうです。その数字が、村の広報誌に一行(いちぎょう)だけ残っていました。

八十二キロ。

今年の数字は、こうです。

百二十キロ。

十一年で、四十キロ近く増えています。

藁は、増やしていません。傷んだところは毎年直しますが、抜いた分と同じだけしか足さない決まりで、差し替えた藁の量まで、Iさんが記録に付けています。

湿気を吸ったのではないか、と思われるかもしれません。私も、最初はそう考えました。ただ、湿気で重くなったのなら、乾けば元に戻るはずです。量ったのは、復活の年も今年も同じ八月で、同じ倉庫から出して、同じはかりに載せています。条件をそろえて量って、それでも四十キロ近く増えたままなのだとしたら、それは湿気ではありません。

一人あたりに直してみます。復活した年は、四人で八十二キロですから、一人およそ二十キロ。二リットルのペットボトル、十本ぶんです。今年は、五人で百二十キロですから、一人あたり二十四キロになります。

五人に増やすと決めた五年目の夏も、たぶん同じくらいでした。毎年おなじ調子で増えていたとすれば、あのとき四人で担いでいた一人あたりも、ちょうど二十四キロほどだった計算になります。

担ぎ手が音を上げるのは、いつも、一人あたり二十四キロのあたりです。そして人を増やすと、一人あたりは二十キロほどに戻ります。だから誰も、人形のほうがおかしいとは思いません。重くなったのではなく、自分たちが歳をとったのだと考えます。実際、歳はとっているのです。

この数字は、Iさんにも見せました。

「湿気ですかねえ」

Iさんは、そう言っただけでした。手順書にこの数字が書き足されることは、たぶんありません。人形を量ることは、手順のどこにも入っていないからです。

誰も、人形を疑っていません

行事から数日たった晩、公民館の座敷で、保存会の反省会がありました。ビールと大皿の煮物を囲んで、来年の相談をする集まりです。

「五人でも、今年はきつかったな」 「来年は六人にするか」 「そうしましょう」

みなさん、歳のせいだと思って笑っています。誰も、人形の話はしていませんでした。

私も、数字の話は持ち出しませんでした。見せたところで、あの人形を村の外へ出す方法が、いまのこの村にはないからです。

この行事は、災いを集めて、村の外へ捨てるための儀式でした。集める工程は、いまも昔の記録のとおりに続いています。松明と鉦で田を回り、災いの逃げ場を、あの人形ひとつに絞り込む。途絶えたままなのは、捨てる工程のほうだけです。

行事を終えた人形は、村境の川へは流されず、公民館の裏の倉庫へ戻されました。公民館が建っているのは、村のいちばん真ん中です。災いを村の外へ送り出すはずだった行事は、いまは、集めた災いを村の真ん中へ持ち帰る行事になっています。そのことに気づいている人は、この村には、まだ一人もいません。

手順というのは、意味を知らなくても働きます。災いを集める工程は、誰もその意味を知らないまま、今年も正しく働きました。

私たちが手順を省くとき、省かれるのは決まって、やらなくても困らないように見える工程です。集める工程は、結果が目に見えます。人形が編まれ、行列が歩き、行事のかたちになります。捨てる工程は、きちんと済ませても、目に見えるものが何も残りません。「災いが来なかった」という結果は、誰の目にも見えないからです。

あなたの家や職場にも、意味の分からないまま引き継いだ手順が、ありませんか。そして、そのうちのどれかを、やらなくても困らないから、という理由で省いたことは。

省いても、たぶん、何も起きません。葉振村でも、この十一年、悪いことはひとつも起きていないのです。ただ、藁の人形だけが、誰にも気づかれないまま、少しずつ重くなっています。

あなたが省いたその手順のせいで、良くないものが、どこかで人知れず溜まっていなければ良いのですが。


元ネタ解説(ここからは観測者の種明かし)

この記事は創作です。ただし、下敷きには実在の行事や信仰があります。どこまでが実在で、どこからが本紙の創作なのかを、ここで説明しておきます。

虫送りは実在の行事です。 春から夏、おもに初夏の夜に松明を焚き、藁人形を作って悪霊にかたどり、そこへ害虫をくくりつけて、鉦や太鼓を叩きながら行列して村境へ行き、川などに流す——かつては全国にありました。地域によっては、流さずに焼きます。

虫の害を「怨霊のしわざ」と考える発想も実在します。 御霊(ごりょう)信仰と呼ばれるものです。非業の死をとげた人の霊が災害や疫病を起こすと考え、その霊を鎮めて外へ送ることで災いを免れよう、という信仰で、記録に残る最初の御霊会(ごりょうえ)は、八六三年、平安京の神泉苑(しんせんえん)という庭園で行われました。虫送りは、この考え方の系譜にある「害のあるものを外に追い出す」呪(まじな)いの一つ、と説明されます。

災いを人の形に移して水へ流す作法も、日本にずっとありました。形代(かたしろ)と呼ばれます。体を撫でて災いを移すことから、撫物(なでもの)とも言います。いまも各地の神社で行われている大祓(おおはらえ)では、紙で作った人の形に息を吹きかけ、体の悪いところを撫でて穢(けが)れを移し、それを川や海へ流します。形代の材料が古くから草や木や紙であるのは、もともと水に投じるものだったからです。虫送りの藁人形も、この「災いを人の形に移して、水で外へ出す」という作法の一つだと考えると、話が一本につながります。

西日本の多くの土地では、この行事を「虫送り」ではなく、ある武将の名を冠した呼び名で呼びます。戦のさなか、馬が稲の切り株につまずいて討たれた武将の霊が、稲を食う虫になった——という由来を伝えているためです。実在の歴史上の人物ですので、本記事では名前を出しませんでした。葉振村の言い伝えも、村ごと本紙の創作です。

行事が廃れた理由も、記事に書いたとおりです。農薬が普及して害虫の脅威が下がったこと、過疎化・高齢化・米価の下落で農業そのものが縮んだこと。そして昭和三十年代にプロパンガスが普及した結果、家庭の燃料としての菜種殻の需要が消え、菜種の栽培が急速に衰えて、松明の材料が手に入らなくなったこと。行事は、気持ちが薄れて消えるとは限りません。材料が消えて、消えることもあります。

「もう川へ流せない」のも、現実の話です。一九七〇年代に水の汚れが問題になり、灯籠を流す行事をやめる地域が出ました。一九七二年には琵琶湖で、翌一九七三年には静岡市の巴川(ともえがわ)で、灯籠流しが取りやめになっています。いまは下流で回収するのが一般的です。流す行事は、流したあとの始末まで含めて、考え直されてきました。

途絶えた行事が復活することも実在します。ただし、多くはありません。群馬県教育文化事業団が二〇〇八年に行った調査では、県内の民俗芸能八百五十五件のうち、二百二十件がすでに中断か廃絶でした。四件に一件です。そして、中断した行事をどう再開するか、再開したものは以前と同じものなのか——担い手が地域の住民から保存会や行政へ移るとき、何が受け継がれて、何が入れ替わるのか——は、いまも研究が続いている論点です。

最後に、村の名前のことを書いておきます。葉振村(はふりむら)は本紙の創作です。ただし「はふり」という音のほうは、実在の古い言葉から借りました。「はふる」は、投げ捨てる、外へ放り出す、という意味です。遺体を野に放つことを指した「葬(はふ)る」も、ここから来ています。捨てるという名前を持った村が、捨てる工程だけを省きました。名前のほうは、まだ残っています。